自分の意見を引っ込めない者は
真理より自分自身を愛している
フランスのモラリスト、エッセイストの
ジョセフ・ジュベールの言葉。
意見を途中で変える政治家や研究者は
あまり良く思われないらしい。
「昔はああ言ってたのに、今はこう言っている。節操が無い人だ。」
「風見鶏だ」
「日和見的だ」
それでは自説を曲げない人はというと、
「融通が利かない」
「堅物だ」
「頑固者だ」
ということになる。
どうやらそれらの間のどこかに世間的に丁度良い立ち位置があるらしいが
どちらかといえば後者に軍配が上がるようだ。
最初に表明した意見を最後まで貫き通す。
そこがカッコイイように見えるのだろう。
しかしこれもこの世界が変化する時代に
長いスパンで見ると果たしていいものかどうかわからない。
「私はこういうポリシーで会社を築いた」
と
本まで書いて吹聴していた社長さんがいつの間にか業績を悪くして会社を追われたりする。
何より、そのポリシーというものが会社を、そして言った本人までも呪縛するのだろう。
会社でも政党でもあらゆる団体でよくあることだ。
「始めるとやめられない」日本の組織の悪弊は、先の"初志貫徹"主義が一役かっていると思う。
一度出来た事業や組織は潰さない。
そこに不正が入り込む隙間も出てくる。
周りの状況がいくら変わろうが、自分の、
そして組織の意見を変えないことに拘る。
そんな自己愛に酔ってしまう。
目の前にどんな事実を突きつけられても
それは変わらない。変えようとしない。
意見を変えるのが自己否定、存在否定に繋がると思い込んでしまうのだ。
科学の世界でも同様のことは繰り返されてきた。
地動説も相対性理論も宇宙膨張説も、だ。
その時代の科学の権威の人間が自分を愛するために長らく否定して進歩を遅らせた。
結局笑い者になったのは意見を変えなかった方だ。
伝統芸能ならいざ知らず、今や100年近く生きるようになった人間が一生考えが変わらないなんてその方がおかしい。
変わらないことは学ばないことと同義だ。
意見を見解を変えることに憚る事なかれ。
そしてその理由が納得できるならば
周りも"変節"と批判することをやめよう。
さて今、皆さんが抱えている諸々の意見。
それは真理に基づくものですか?
それとも自分を愛するためのものですか?
【言の葉のブログ】
↑面白いブログより引用。
追記
今日の【言葉】
他人に注意する者は、それが正しい要求であると信じていればいるほど、覚悟しなければならない。
自分はいまたいそう傲慢な行為に出ているのだから、無傷で相手を動かすことができるというおめでたい期待などしてはならないこと、を。
『カイン』
中島義道
おしまい。
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ということである。追記
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